昭和44年01月06日 朝の御理解
御神訓 一、道教えの大綱
「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ わが身は神徳の中に生かされてあり。」
「疑いを放れて広き真の大道を開き見よ わが身は神徳の中に生かされてあり。」これは 、神様の氏子に対する願目だと思うのです。神様の願いの第一のものですから、「わが身は神徳の中に生かされてあり。」と言う、ここのところを分からして頂くための御用であり、お参りでなからねばならんのです。御理解第三節に「願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ」とあります。
「願う氏子におかげを授け」、願うてくる氏子におかげを取り次いでやれというのである。おかげをやらないと人はついてこない。けれども次に「理解申して聞かせ」とあります。本当の事を分からしてやってくれというのである。それはどうゆう事の為かというと、「末々まで繁盛いたすこと」とあります。子々孫々に到る迄の本当の繁盛の元というものをです、そうでないと「氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす」と云う事になってこない。
私共がおかげを頂く段階から理解を申し聞かせとおっしゃる、その理解を聞く事の喜びが、お話を聞かして頂くこと、天地の道理を聞かしてもらい天地の御恩徳を分からしてもらい、そこに神恩報謝の生活ができ、有難い勿体ないの生活ができ、しかもその生活が、子々孫々にも伝わっていく基礎を継がせて下さろうとする神様の願い、そういう事にならんと神も助からんのだと云っておられるのです。氏子ありての神、神ありての氏子。氏子が苦しんでおれば神がいつまでも苦しんでおる。
子供が苦しんでおれば親もいつも苦しんでおかなければならん様に、氏子が真実の助かりと云う事になってこそ神も助かるんだと。そこから神と氏子があいよかけよで立ち行く、上下立つやうにいたすと言う事になってくる。「わが身は神徳の中に生かされてあり」これが神様の第一の願いである。そこに安らぎがあり、安心があり喜びがある。昨夜の御理解に「不思議とは云うまじきものぞ」とおっしゃるが。
それでも不思議で不思議でたまらんというおかげを、私共頂かしてもらわなならんと言う事を頂いたんですが、そこに初めて、いかに私共が神様の大きなお守りの中にあるかと、こうゆう神様のお働きの中にあるかと言う事が分かるから有難いんだと、昨夜の御理解に頂きました。日々が、そうゆう不思議で不思議でたまらんというおかげを頂く、そこから、「わが身は神徳の中に生かされてあり」と言う事が分かってくる。有難い事じゃなあ、我情を云わんでんいいねえ。
我欲をいわんでんよかねえ、神様はこの様にしてお守り下さってあるんだとゆう事が分かる。そうゆうおかげを頂かせてもらう為に、「疑いを放れて」と言うておられる。「広き真の大道を開き見よ」。昨日の朝の御理解に、何故寒中修行が大事かと言う事を頂きましたが、自然に打ち向かう、神様に打ち向かう。その中には暑さがあったり、寒さがあったりである。そこでその暑さ寒さを克服していく。
そしてその暑さ寒さが困った事でも、難儀な事でもなく、神様のお働きであると分からして頂く為に、ここでは絶対のものとして説かして頂く中に、神様が氏子一人一人に求め給う修行。それは、各々に違う訳である。それが日々の中に自然の中に起こってくる。その中には、腹の立つこともあれば、情けない思いをすることもある、にこにこせにゃおられん場合もある。だからそういう時にです、調子に乗り過ぎたり、意気消沈したりしたんでは、おかげは受けられんというのである。
全てが神様のお働きなのであるから、それを皆神様のお働きとして、神愛として神様の願いとしてそれを私共が受けて立たして頂く稽古。それを成行きを大事にしていけ、成行きを尊ばして頂く事は、そのまま神様を尊ばして頂く事だと、私は極言しておる訳です。ですから、そうしていきよれば絶対に道は開けてくる。だからここに「疑いを放れて」とおっしゃる。疑うて聞かねば仕方がない。
成り行きをこんな難儀な問題はいやだ向こうに押しやりたかったけどこれは私に求めたもう神様の働きと分らして頂いたからその中を元気な心で受けさして頂く信心をさせてもらうことにならせて頂いたらその向こうに、広き真の大道が分かってくるのである。なる程、「わが身は神徳の中に生かされてあり」というのは、こうゆう事であろうかと分かってくる。あことが真の大道を開き見ることになるのです流れて来る自然の中にそのことだけは私に求めたもう神様の修行。
この修行をこえる事が真の大道を開き見ることになるのです。真の大道とは、天地につながる道、いうなら神様に直接通う事の出来る道、その真の道を分からして頂く為には、真の修行が必要なのだ。真の修行とは、水をかぶったり断食をする事ではない。神様が私にだけ求め給うひとつひとつの事柄をです、大事に尊ばして頂くと言う事。それを具体的にいうと、私の過去十何年間のことを紐解いて頂けば分かる。腹の立つような事、理不尽な事が皆おかげになっておる。
もしそれを、受け損のうとったらどう言う事になるだろうかと思う。だからいかに神様が私にだけ求められる修行を大事にする事が大切か、その向こうには数珠つなぎの様におかげがつながっておる。ですからそう言う事からも、皆さん今日はひとつ私の言う事を、疑いを放れて聞いて頂かにゃいかん。そして広き真の大道を分からして頂く為には、その成行きそのものを大事にせよ、と、そこでこの寒中修行というのは、この寒というのは、人間の知恵力じゃない神様のお働きなのだ。
だからその寒に向こうてでも受けて立たして頂ける力、その寒そのものも有難いと分からして頂く稽古をするのが、この寒修行なのだ。そこでこの寒修行を元気な心で、受けて立たして頂いたら、後はどう言う事にならなきゃならないのか。そこのところが「理解申して聞かせ」なのである。そこで皆さんにこうやって理解を聞いて頂いている訳である。だから、そのお話を皆さんが信じて帰らしてもろうて、それを守らせて頂くと言う事になるのである。
そこでここで今年のスローガンであるところの「いよいよ明るく、いよいよにこやかに」と云う事が必要になってくる訳なのです。例えば子供でも、明るいにこやかにしている子には、ものを頼みやすいでしょうが、ブーッとして何に腹かいとるのか分からんとか云うのには、もの云おうごつもなか。それで明るくなる事に努めとかにゃいかん。にこやかになるごと努めとかないかん。
そこでです、真の大道をいよいよ分からして頂く事の為に御用がある。氏子ありての神、神ありての氏子と、ここでは神様はいうておられる。そこでこれを、私共氏子の側からは、いいえ、神様があっての私共だと言う事にならにゃいかんのでしょうが。神様も氏子あっての神とおっしゃるなら、氏子もいいえ、神様あっての私共と言う事にならにゃいかん。昨日総代さんのお節でしたが、皆さんがいわれるのです。親先生があっておって下さったおかげで、現在の私共があるのです、というそうゆう頂き方。
そこで私がです、私がおったからあんた方が助かっとるとばいという訳にはいけん。あんた方がおって下さるから合楽は立つんだという訳なんです。いいえ先生あなたのおかげでそこんところに、あいよかけよの美しさというものを感ずる。これは、もう美しさ以上のもの、そこから「上下立つようにいたす」とおっしゃる道が開けてくるのである。そこでお互いが、そうゆう続柄でお育て頂いておるのであるから、お広前の御用となれば、何はさておいてお役に立たねばと言う事になる。
これは誰が求めると言う事もなしに、自然にはじめられた今年の第一の御用がこの六日から始められる御造園である。これは誰が思い立つでもなしに、神様が思い立ちなさったという感じでしょうが。その神様の思い立ちなさった御用に神様が思い立ちなさっただけではいけんのである。そこでお役に立ちたい、お役に立ちたいという願いに、お互いが燃えなければならない。
そんならお役に立ちたい、お役に立ちたいというても、ブーッとしとったり、暗い心をしておったら、ちょいとあれを持ってきてくれんの、とひとつもいえんのである。神様が御用に使っておって下さるんだなあと実感できるおかげ、それが有難いのである。お役に立ちたい、お役に立ちたいという願いが、何故そこに明るくなからねばならんのか。何故にこやかにあらねばならんのかと言う事が分かる。
自分がおかげ頂く為じゃない、神様が使いようあんなさる為に、にこやかになからねばならんのであり、明るい心でなからねばならんのである。それがひいては、自分も助かっており、自分の一家も明るくなっていくのである。そういう意味合いで今日から、ここの御造園がほとんど寒中修行の間開かるるでしょうが。ですからこうして、朝参りをするだけが寒中修行でなくて、自然に起きて来る神様の私共に求め給うお働きをです、私共が受けて立たして頂く。
なる程、神様からお使いまわして頂いとるというおかげを頂かせて頂くところにです、なる程「わが身は神徳の中に生かされてあり」と云う体験も、共に頂けるのである。「わが身は神徳の中に生かされてあり」。その実感が子供に孫に伝わっていくところに、末々迄繁盛致す事の道が拘束されるのである。又、そういう確信も生まれてくるのである。「末々まで繁盛いたすこと、氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたす。」というおかげがそこから開けてくる。
「わが身は神徳の中に生かされてあり」という喜びの中の生活、そうゆう生活を私は信心生活だと思う。お道の信奉者の全てが、わが身は神徳の中に生かされてある喜びを謳歌しながら生活が出来れる信心頂きたい。それには「願う氏子におかげを授け」とおっしゃる、おかげを頂かねばなりません。おやつもいるのです、けれども「理解申して聞かせ」というところに耳をすまさにゃいけんのじゃないですかね。
どうぞ。